晴釣雨読とは?
「晴れた日は釣りをして雨の日は釣りをしつつ読書もすると、いつか出世できるかも。釣りと読書万歳」という古代中国の有難いことわざである。
後漢末、『蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし』と漢朝の非道を嘆いた民衆の期待を受けて、張角が黄巾の乱を起こした。
ここに、牛葛究という書生がいた。この男、今の世で言う釣りバカである。
牛葛究は晴れた日は朝から晩まで釣りをし、夜になったらなったで「ナマズやウナギの活性があがる」などとうそぶき暗闇の川に向かい、雨が降ったらふったで「ナマズやウナギの活性があがる」などと鼻息荒く濁流渦巻く川小屋に向かい、ドバミミズをエサにぶっこみ釣りをしては、どこから得たのか孫子の写しを読みながら天下の兵を考えていた。やがて、この牛葛究はいつごろか諸葛亮と名を変え、当時フリーランスであった劉備に出会う。
諸葛亮の噂を伝え聞いた劉備は、自分が身を立てるには、軍師が必要であると思ったのだろう。所謂、三顧の礼によって諸葛亮こと牛葛究を得、桃園の誓いにて義兄弟を誓った関羽・張飛の嫉妬を巧みにかわしつつ、諸葛亮と水魚の交わりを結ぶ。
「ははは、君と僕とは水と魚だ。きってもきれない。どちらがいなくなっても生きることができない」
その後の諸葛亮は釣りをしながら考えた天下三分の計を発案し、魏をナマズ。呉をコイ、蜀を釣り人にたとえ、漢王朝の復興を唱えたが、その先行きは厳しかった・・・
『リストラ』という言葉は、あまりよい使われ方をしていない。
この言葉は『リストラクチャリング』の省略語であり、もともと「事業の再構築や構造の変革を行なう」ことを指している。
一方労働者として雇用される側からすると、人員整理という意味合いが強く感じられるかと思う。
そんな労働者からみて『リストラ』という不吉な言葉をタイトルにもつ料理本がある。
「毎月の食費にいくらかけているか」
社会人になって、埼玉、東京、神奈川川崎に引っ越し、さらにもうすこしローカルな地である逗子にきてそんなことを考えた。
ORETSURIをご覧の方は男性が多いので、食費について一生に一度もつきつめて考えない人もいるかもしれない。ここではその是非は問わない。
わたしの場合、サラリーマン時代はほぼ毎食外食であった。
かつ交流を広げようと積極的に会食をしていたので、いつの間にか1か月の食費が10万円を超えるようになっていた。
ひとり身で10万円を毎月食費(接待交際費も含む)に投資するというのはなかなかのエンゲル係数の高さであったと思う。酒もたいして飲めないのに、多いときで週4回は自腹で毎夜会食に出ていたので、まー精力的だったなと思う。
それはそれで将来への投資としての価値は一定あったと思うが、最近は料理は自分でなるたけつくりたいという志向性になってきている。
これは、節約したいという気持ちがありながらも、以下の思惑がある。
- 自分でできることは、できるかぎり自分でやりたい
- 料理技術を磨きたい(自分で作った一品は旨いし、誰かに「おいしい」といってもらうのが好きだからだ)
- 外食で金を払ってまずい料理を食べたくない
そんなときに、この魚柄仁之助氏の台所リストラ術との出会いは刺激的だった。
大都会の東京目黒在住で夫婦の食費が毎月2万円以下に押さえられているという魚柄氏。
どうやってそんな生活をしているのかというと、もちろん高いものは買わないというのは当たり前なのだが、一般的には出来合いを購入する調味料などを含めて自分で作っているという。
この本では、穀物・乾物の活用法から、ORETSURIでもよくご紹介している魚のアラの活用法など、すべてにおいて工夫され著者の食や節約への信念が垣間見える。
文中、魚料理についても言及がある。
- 尾頭付きで魚はかう
- イワシやサンマを活用する
- 骨、腹身、内臓を活用する
など、読んでいてやっぱりそうだよなーと思うことが多い。
外食をして、素敵なロケーションで、品質に見合ったお金を払って美食をするのは楽しい。
でも、自分で素材を吟味して限られたお金で最高の料理を作ることも楽しい。
ということで、わたしは今夜も、前回より旨い魚の煮付けを試してみるのである。
↓料理だけでなく、自分であれこれ工夫して生きたい人にはオススメだ。