こんな話を読んだ。
内容としては、以下の通り。すこし要約する。
1950年代のタイの地方が貧しくたんぱく源に乏しかったことをプミポン国王が憂慮。お金や物を与えるのではなく、自力で持続可能な開発を行う力を農民たちが持てるようにさまざまなプロジェクトを考案。その一つに淡水魚養殖があった。プロジェクトにあたっては淡水魚について知見があった現上皇に相談があり、上皇はアフリカ原産のテラピア(タイ語「プラー・ニン」)の存在を教えて50匹の稚魚を贈った。結果、テラピアの旺盛な繁殖力によりタイの国民が飢えから救われた。その後、テラピアは輸出用としても有名になりバングラデシュの飢えも救った。タイの国民は「タイの国王と日本の天皇(上皇さまのこと)にいただいた魚だから、大切に育てている」「(上皇さまは)タイの食料難を救った恩人」などと考えている。
タイは親日国としてもよく知られているが、そこにはこのようなエピソードもあったのだと、はじめて知った。
テラピアは調理法にもよるが淡白で揚げたり、カリッと揚げたものをあんかけにすると、とても美味しい。
東南アジアを旅したことがある人は食べたことがあるかもしれない。
人は物質的に貧しいうちは「たんぱく源」を切望する
このタイにおけるテラピア養殖の話を読んで思ったのは、人々は貧しいうちは身近な「たんぱく源」を切望するんだなという点だ。
日本も戦中戦後の食糧難の時代は、野や田畑の食べられるものは虫でも蛙でもヘビでもみんな食べたということがよく知られている。国からも食料配給だけでなく、食べられる野草や生き物についての指導があったそうだ。
すこしさかのぼって1925年には赤星鉄馬氏によってブラックバスが芦ノ湖に移され、戦後の1966年には上皇によって静岡県伊東市の一碧湖にブルーギルが放流されている。
バスの移植については食用にくわえてゲームフィッシュとしての意図もあったとされ、ブルーギルについては食用の意図にくわえて、様々な異説がある。
いずれにせよ、食用という意図が大きかったのだと思う。
ウシガエルや、その餌として移入されたアメリカザリガニも同様だ。
が、日本は戦後の高度経済成長によって総中流社会になり、多くの人にとって実質的な「飢え」は現実的なものではなくなった。
今の日本は、精神的にはどうかしらないが、物質的には間違いなく豊かになっている。
たとえば、ホームレスになったとする。
その場合でもプライドを捨てれば、街中には賞味期限が過ぎただけで大量に破棄される食料がある。
なので、実際のところ「飢え」で死ぬという人はほとんどいない。むしろホームレスの前には生活保護という福祉の仕組みがある。こちらもプライドを捨て、役所による水際作戦を乗り越えれば決して飢えるはずのない一定額が受給できる。
魚は「娯楽」として楽しむ対象になった
「衣食住足りて礼節を知る」という言葉がある。
衣・食・住。
人はこれらの3要素が足りてくると、礼節だけでなく、しだいに「娯楽」を望むようになる。
魚に対していえば、魚をどうにかとって「食べる」という命の問題より、「釣る」ことを通して楽しむという要素が強くなる。
江戸時代から釣りを「娯楽」としてとらえていた人はもちろんいたが、より多くの人が釣りを楽しむようになったのは戦後なのだと思う。
ブラックバスの話にもどると、赤星氏が考えた通りにはいかず、バスは食用として受け入れられなかった。
これは、高度経済成長によって湖沼や河川の水質汚濁が発生して、物理的に難しかったという理由があるのかもしれない。また、そもそも内陸県以外の住民はそれほど淡水魚に親しみがないという理由があるのかもしれない。それに料理を知らないマスメディアが「ブラックバスやブルーギルは臭くてまずい」というような情報を発信し、人々が鵜呑みにしてしまったからなのかもしれない。
いずれにせよ、バスは食用ではなくゲームフィッシュの対象となり、ブルーギルは密放流にともなって、ブラックバスの餌として扱われた。こうして昭和平成と数度のバス釣りブームが繰り返された。
ちなみに、わたしもバス釣りから本格的に釣りをはじめた一人だ。
「池の水ぜんぶ抜く」が喜ばれ「外来魚問題」がいびつになっている豊かな国
やがてあらたな法律がつくられた。
そこに「特定外来生物」というカテゴリーがうまれて、それまで多くの人が経済的に趣味的にかかわっていたブラックバスとブルーギルもその一つとしてあてはまるようになった。
同時にバス釣りという遊びは急にうしろめたい存在になる。
それまで有名人もこぞってバス釣り好きを公言していたのに、誰もバス釣りについて触れなくなったのだ。
実質、「リリース禁止」という条例違反をおかさないで釣りができている人は多くないと思う。
釣りのプロとされる人も同様だ。プロ活動をやめた人の他に、なかにはバス釣りから戦略的撤退をして、その他の釣りジャンルで活躍をしている人もいる。
在来種とされる生き物には、生存数が少なくなり希少とされるものから、そのあたりにいくらでも生息しているものもいる。
が、「池の水ぜんぶ抜く」などメディアで外来種(魚)問題が取り扱われるときには、外来魚であるということ自体が悪(いてはいけないもの)とされ即駆除の対象になる。とくに特定外来生物は生きたまま移動できないという法律のしばりからその場で殺す必要がある。
楽しいお祭り騒ぎの背景では大量の殺処分と死がある。
そもそも人工的につくられた池の生態系のどうこうなどを本当に考えてイベントを依頼している自治体等が考えているのか。
そんなことはなく、地域の活性化のためにやっているようなにおいも強い。
番組をまねいて、芸能人といっしょに「かいぼり」というお祭りを開いて地域住民を楽しませる。政治家が前面にたっている自治体などは、次の地方選のための票集めなんだろうなと思ったりする。政治家には勝たなくてはいけない理由もあるのだろうから、そういったニーズもよくわかる。
人はそんな「池の水ぜんぶ抜く」をみて、楽しむ。
わかりやすい、いいエンタメなんだと思う。
黒いものと白いもの。
これは黒だからダメ。
これは白だから正義。尊ぼう。
単純に言うとそういうことで、水戸黄門みたいなもんだと思う。日本人は勧善懲悪が好きだから。悪役がいてこそエンタメが成り立つ。
こうして、子供も大人も娯楽として、魚介類の命をうけいれるようになったのだ。
嬉々としてつかまえた外来魚がどう殺されて、その後どうなっているのはわからない。在来魚もつかまえば活かしておいても死ぬものもいる。
ディスプレイを通して、外来魚とされる魚の瞳の本当の美しさは見えない。
そこに命の重さを感じる人などは、ほどんといないのだろう。
精神的な貧困層が増えているのかもしれない
閉鎖された人工池を「もとの通りにする」っていっても、どのタイミングにするんだろうかと思う。
矛盾や欺瞞が多すぎる。
番組をみて喜んでいる人、それも親である人は、自分の子供にどう説明しているのか不思議だ。
以前、都内の池のかいぼりを告知しているポスターをみたら、子供による手書きのイラストで極悪な表情のブラックバス・ブルーギル・雷魚が描かれていたのを覚えている。人間でいえば犯罪者の手配人みたいなものであった。
そんなことを子供に教えて描かせている大人がいる。
なんとも息苦しい。
いずれにせよ、この国の人は豊かになって、際限のない娯楽が必要になった。
そういうことなんだなと思う。
もはや、ブラックバスやブルーギル、レンギョや鯉のたんぱく質がもったいない。
そんなことなんて誰も思わない。
だって、スーパーにいけば丁寧に下処理され、味にクセのない切り身や干物が安く手に入るわけだから。
でも、この国の外来魚問題について考えると、この国は精神的には貧しくなってきているんだろうなと思わずにはいられない。
次の世代にどう話すのか
わたしには一人の息子がいる。
自分の子供にこの欺瞞性が高く歪な「外来魚問題」を説明するときはいつか来る。
さて、どう話そうか。
なんとなく「どの魚も、大体美味しい」というあたりから話しをするような気がしている。
実際に魚を釣って料理して美味しく食べて、魚がまずいのは、よくない水にした自分たち人間や保存や調理の仕方をしらないことが悪いのだと話す。
そんな気がしている。
平田(@tsuyoshi_hirata)