釣りにいくと誰でも「釣れない」に直面することがある。
狙っている魚が釣れない、一匹も釣れない、など、その種類はいくつかにわかれる。それらを釣り人は「ボウズ」と表現する。ほかには「オデコ」「ホゲる」という人もいる。が、今回は、釣りにおける「ボウズ」にフォーカスしたい。
釣りの「ボウズ」と「坊主」
釣り人がおそれ、時に笑いをこめて口にする「ボウズ」の意味合いは、仏教の坊主に由来するといわれている。
トラディショナルな坊主は煩悩を遠ざけるために頭をそり上げているため、毛がつるりんと一本もないというわけだ。そこが釣りにいって、無念、一匹も釣れなかった、えへへゼロだよ。という点と重なっている。
もちろん、坊主のなかには自然につるんと禿頭となっている人もいるが、だいたいつるりんぱ!と、日々剃り上げるのが正統派なのだと思う。
そこに俗世への甘えみたいなものがあると、ちょっと伸びたおしゃれボウズみたいなことにもなったりするが、釣りで言うボウズの語源は伝統的な仏教における僧侶のつるぴか状態を指すとおもっていたほうがいいだろう。
そうそう。
釣りをしていて、ボウズに直面すると、人によって反応が異なる。いくつかパターンを紹介したい。
ボウズと釣り人:釣果は本質ではないとする
いざ、ボウズに直面すると、「釣りは釣るだけが本質ではないからねー」「今日は来てよかった。楽しかった」「いろいろ勉強になったなー」というような発言をする人がいる。
ポジティブでいいと思う。いい人生を送れると思う。
たしかに釣りは狙った魚を釣るだけが楽しいかというとそうでもない。釣りという遊びに対して、そうした単眼的な見方より複眼的な視点をもっていたほうがより釣りを楽しんでいるんじゃないかなと思ったりする。
竿を出すだけで面白いし、自然のなかに身を置くだけでも開放的だし、おっさん同士でも友人とじゃれあうのもまた楽しい。
一方、ボウズになったことをポジティブにとらえている人にも、ボウズの闇は全くないかというとそんなことはない。
こうしたポジティブ発言をしている人をじっとりみている眼がある。わたしの眼だ。
すると、だいたいの人が、つらさをしっかり受け止めつつ、一緒にいったみんなに配慮するためにポジティブシンキングを発露しているような気もしている。
心の闇を胸に封じ込め、涙をこらえて、「今日も楽しかったなー」ってな具合に努めてあかるくふるまう。大人だ。
ボウズと釣り人:誰かのせい、なにかのせいにする
ボウズに直面すると、何かのせいにして呪う人がいる。
釣り座、船長、ルアー、フック、餌、仕掛け、タックル、潮、天気、運、生まれの不幸などなど。
「いやー釣り座が悪かったよな。潮ケツだし」
「貸し竿がダメだったわー。リール壊れていたし」
「隣のおっさんのPEが滅茶太くて、オモリも軽いし、毎回こっちにオマツリしてくるから時合のがしちゃったよ」
などなど。
これらのネガティブ要素はだいたいその通りなことも多い。
あなたは釣りにいった日の夜、風呂などに入っているとき「なぜ俺はボウズになったか?」をしっかり自問自答しているだろうか?
もしあなたがボウズにいたった課題をきちんと分析し、次回の釣行までに解決しようとしているならば、だいたい釣りが上手い人なんだと思う。たぶん、メイビー、きっと。
こうした人は今釣りが上手くなくても、だいたい釣りがうまくなっていく。仕事でも同じだと思う。きちんと振り返り、要素を洗い出して、改善する。使い古されたビジネス用語ではPDCAサイクルを回すってやつだ。
一方、世の中には、何事も他人のせいにし、ぷんすかぷんすかした後、帰り路に旨ラーメンでも食べたら満腹ハッピーになってすべて忘れてしまう人もいる。
仕事で上司やクライアントと嫌なことがあって帰りの満員電車で匿名Twitterでいろんなクソリプを放り投げていても、最寄り駅で松屋にいって創業ビーフカレー大盛を食べればすべて忘れるのと一緒である。
実際のところ釣りで直面するボウズは複合的な要素によるものがほとんどで、一つのことが要因になっていることは少ないと思う。
なにかのせいにしてもいいが、その失敗要素にいたってしまった選択を自分がしたと認識できない人の場合、公私で一生「○○がだめなのは○○のせいだ」で終わりがちな気配がある。
「給料が少ないのは自民党のせい」
「潮が流れないのは、ぜんぶアベのせいだ」
「上司が悪い、物わかりの悪いクライアントが悪い、頭の悪い後輩が悪い」
などなど。
こういった
ネガティブ他責思考は、真っ当な判断基軸をもった大人からすると、そばにいてちょっとキツイものがあるので、だいたい人が離れていく。もしくは、おなじような人と、一生「○○のせい」だ。と言い続けそうな気がする。
ボウズと釣り人:ひたすら落ち込む
ボウズに直面すると、程度の差はあれ、落ち込む。
ボウズだ!よっしゃー!わーい。みたいに思う人は一人もいないと思う。筆者の場合は、ボウズでもネタになるので、人から「ちょっとうれしいんじゃないですか?」みたいにいわれるが、実際のところは、かなしく、つらい。
特につめるところをつめた上で、必勝を胸に秘めたときだったり、一緒にいった人はみんな釣れているのに自分だけ釣れないときなどはとても滅入る。
そうそう。岸釣りでもそうだが、釣り船での沖釣りの場合でのボウズもっとつらい。
一日船であれば往復の交通費や食事代も含めて13,000円から15,000円ぐらい投資していると思う。それに時間も朝から昼過ぎまで8時間以上。行き帰りをふくめると10時間程度は貴重な休日の時間をつぎ込む。で、釣れない。
それに、同じ船にのっている周りは釣れているのに自分だけボウズだとする。
準備も完ぺきにして意気揚々と出陣したのに。
ジョトダコラ。
ふざけんなこのやろいいますわ。
なんでだ。なぜ。WHY釣れない?
と、自問自答しつつ、敗北要素を分析する。
それでもそれは100%の答えではないことは誰でもわかる。釣りはなんで釣れなかったかわからない要素があるからだ。科学的思考、論理的な思考をもってしてもはかりしれない何かがある。
そのよくわからない何かに魔物が潜んでいて、あなたを釣り沼に引きずり込んでいくのだ。
だって、隣の貸し竿でテキトーにやっていた人が釣れて、俺だけ釣れない。どういうことだよ。海底の責任者を出せ。いやクレームじゃないんです。ちょっと御社の今後のために伝えたいことがあるんです。みたいなこともあったりする。
釣りで落ち込める力をもった人は、反動で、リベンジへの執念を燃やしやすい。
落ち込んで落ち込んで、いつのまにかエネルギーがネガティブからポジティブに変化して、あれこれ考えていくことが楽しくなり、それが光になり、しばしば道具に執念を燃やし、見事に散財する。
まとめ
おい、これで何をまとめるのか、まとめることもないだろと自覚しながらも、そろそろ終えたいので一応まとめておきたい。
釣りは「釣れない」「ボウズ」があるから燃えるところも多い。
ボウズの苦しみ、かなしさ、恥ずかしさみたいなものをへて、釣り人は武装を強化し、釣技を調べ、盗み見て、釣力をあげていく。そこで釣りをめぐるマーケットが潤い、めぐりめぐっていく、めぐりズム。
なんでこんなことを書いたかというと、意気揚々とスミイカを釣りにいって見事ボウズになったからですよ。
どこだ連邦のモビルスーツは? pic.twitter.com/ar3bPhVu4O
— 平田 剛士@ORETSURI (@tsuyoshi_hirata) January 23, 2020
燃えています。
ただそれだけです。
ではでは。